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東京高等裁判所 昭和36年(ネ)23号 判決 1961年11月29日

事実

控訴人(一審原告、敗訴)味岡大吉は請求原因として、控訴人は金額十万三千五百円の約束手形一通を被控訴人坂本良助から裏書譲渡を受け、満期に支払場所に呈示したがその支払を拒絶されたので、支払拒絶証書を作成し、現に右手形の所持人である。

ところで本件裏書は被控訴人自身が真正になしたものであるが、仮りにそうでないとしても、手形行為につき被控訴人を代理する権限を有していた同人の妻訴外坂本アイが、その代理権に基づき被控訴人のためになしたものである。また、坂本アイに右代理権がなかつたとしても、同人は被控訴人の営業(菓子、牛乳の小売)の総括的代理人であつて、控訴人は同人が被控訴人の代理人として手形行為をなすにつき、その代理権を有することを信じ、且つ信ずるについて正当な理由を有していたものである。よつて、何れにしても被控訴人は裏書人として本件手形金の支払義務を負うものであるから、控訴人は被控訴人に対し、右手形金十万三千五百円及びこれに対する完済までの法定利息の支払を求めると述べ、さらに予備的請求として被控訴人は、菓子、牛乳の小売を営業とするものであるが、その被用者である同人の妻坂本アイは、その営業の執行に当り、同人が業務上保管する被控訴人のゴム印及び印顆を使用して、控訴人に損害を加えることを知りながら、被控訴人名義で本件手形を控訴人宛裏書譲渡した。これによつて右裏書を適法なものと信じて取引をなした控訴人は、その対価として出捐した金九万三千百五十円の損害を蒙つたから、控訴人はその使用者である被控訴人に対し、右損害額及びこれに対する完済までの遅延損害金の支払を求める、と主張した。

被控訴人坂本良助はこれに対し、本件裏書は訴外塚越正吉の偽造によるものであつて、被控訴人が裏書したものではなく、その他の本件手形に関する事実は知らない、と争つた。

理由

控訴人は、「被控訴人は本件手形の裏書人であるから、控訴人に対し本件手形金を支払うべき義務がある」と主張するので判断するのに、本件手形の裏書欄には被控訴人名義の記名捺印が存するけれども、証拠によれば、右記名捺印は、訴外塚越正吉が被控訴人の妻坂本アイから被控訴人のゴム印及び印顆を借りて、被控訴人に無断でなしたものであることが認められるから、控訴人の右主張は採用できない。

次に控訴人は、「右裏書は、被控訴人を代理する権限を有していた同人の妻アイが、その代理権に基づいてなしたものであるから、被控訴人はその責を免れない」旨主張するけれども、本件に顕われたすべての証拠によつても、被控訴人の妻アイが被控訴人から本件手形の裏書をなすべき権限を与えられていた事実を認め難く、却つて証人坂本アイの証言及び被控訴人本人尋問の結果によれば、被控訴人はアイに対して本件手形の裏書をなすべき権限を与えた事実のなかつたことが認められる。

なお控訴人は、右アイが被控訴人の総括的代理権を有する商業使用人であると主張するので、この点につき按ずるのに、被控訴人が菓子、牛乳の小売業を営み、右営業についてその妻アイを使用していることは当事者間に争がない。しかしながら、証拠によれば、被控訴人の前記営業については、商品の仕入及び資金の調達は被控訴人が自らこれに当り、アイは単に店舗にある商品の販売をなすにすぎないものであること、尤も仕入先から商品の送付を受けた場合にアイがこれを受領し、被控訴人のためその受領証を作成交付する事例はあるけれども、右は単なる機械的事務の範囲を出でないものであり、アイが自己の裁量に基づいて商品の仕入、もしくは資金の調達をなし、または被控訴人のため手形の振出もしくは裏書をなしたような事実はなかつたことが認められ、右事実と右認定の資料に供した証拠を対照して考察すれば、アイは単に右店舗の物品販売に関する権限を有する商業使用人であつて、商法第四十三条所定の包括的代理権を有する商業使用人ではないと認めざるを得ない。従つて、本件裏書は被控訴人の妻アイが、被控訴人を代理する権限に基づいてなしたものであるという控訴人の主張は採用できない。

次に控訴人の表見代理の主張について判断するのに、証拠によれば次の事実が認められる。すなわち、塚越正吉は前記のように本件手形の裏書欄に被控訴人名義の裏書を記入した上、訴外阿久津文男を通じて控訴人から本件手形の割引を受けたものであること、控訴人は当時右阿久津と懇意であつたが、被控訴人および塚越正吉とは全然未知の間柄であり、本件手形を受け取るに際し、右阿久津から「被控訴人は新橋の良い所で菓子屋をしている」旨聞いただけで、進んで本件手形の裏書がなされるに至つた経緯ないしその真否について特段の考慮をめぐらした形跡は認められないのであり、殊に右裏書は被控訴人の妻アイが被控訴人を代理してなしたというような事実は全く関知しなかつたものであることが認められる。しかして、右認定の事実関係の下においては、本件裏書について、被控訴人に民法第百十条の責を帰せしめることはできないから、控訴人の表見代理に関する主張も採用するを得ない。

そこで控訴人の予備的請求について判断する。被控訴人が自己の営業についてその妻アイを使用していることは前記のように当事者間に争いがないが、前記認定事実によれば、アイが被控訴人に代つて手形の振出、裏書をするような行為は、右営業に関するアイの職務権限に属しないことが明白であり、アイが本件手形の裏書について、前記のように塚越正吉に対して被控訴人のゴム印および印顆の使用を許した行為は、到底これをもつてアイが右事業の執行についてなしたものと目することはできない。のみならず、証拠によれば、アイは当初塚越から本件手形に被控訴人の記名捺印をするように求められた際これを拒絶したが、右塚越から再三に亘り、「被控訴人には、後で自分が話すから心配はない」旨言明の上、依頼されたので後刻塚越において被控訴人の了解を得るものと信じて、前記のように被控訴人のゴム印および印顆の使用を塚越に許諾したものであること、しかるに塚越は結局被控訴人の事後承諾を求めることもなく、被控訴人不知の間に前記裏書を利用して控訴人から本件手形の割引を受け、しかも満期に手形金の支払をしなかつた結果、控訴人をして右割引金相当の損害を蒙るに至らしめたものであること、本件裏書のなされた当時、アイは、塚越が被控訴人名義の前記記名捺印に基づいて第三者に損害を蒙らせる事態を招来するに至るようなことは夢想もしていなかつたことを、それぞれ認めることができる。しかして、右事実関係の下においては、控訴人の蒙つた前記割引金相当の損害は、アイの違法な行為によつて生じたものと解することは到底できない。してみると、何れの点からしても、アイが被控訴人の事業の執行について控訴人に損害を加えたという事実を前提とする控訴人の予備的請求は認容できない。

以上のとおりであるから、控訴人の本訴請求を棄却した原判決は相当であり、本件控訴は理由がない。

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